鹿島大使役記(かしまおおづかいやくき・かしまだいしえきき)
鹿島神宮で7月に行なわれる例大祭は朝廷が派遣する勅使が大使役を務めて祭礼が執り行なわれていましたが、中世になると朝廷の財政事情の悪化で在地の常陸大掾が大使役を務めるように改められました。常陸平氏7家(鹿島・吉田・行方・大掾・真壁・小栗・東條)で毎年順番に担当し、國府の大掾氏以外が大使役を務める場合は、臨時に大掾職が与えられたそうです。常陸平氏以外を排除することで一族の結束が図られ、外部に対しては常陸平氏の権威を示す効果がありました。
年と大使役を務めた家名をリストアップしたものが『鹿島大使役記』で、江戸後期に宮本茶村が『常陸誌料』の編纂に活用しています。大使役を務めるには相当の財力が必要ですから、その家が健在か否かを量ることができます。

不思議なのは、南北朝の内乱で南朝方として戦った東條氏が北朝方に降伏したのが暦應4年(1341)10月であり、その僅か3ヶ月前の7月に東條氏が鹿嶋大使役を務めている(『歴史年表(PDF)』)ことです。すなわち、もうすぐ降伏しなければならないような切迫した状況下で大使役を務めたことになります。さらに、降伏直後から鹿島大使役を複数回務めている(『歴史年表(PDF)』)ということは、財力を含め余力を残しつつ戦っていたことを意味します。また鹿嶋大使役は合戦に優先するほどの重大な務めだったのかもしれません。

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