宮本茶村説明板

『宮本茶村説明板』 茨城県潮来市潮来 Googleマップ 潮来浄国寺  2010年1月10日撮影
カメラ機種名: Canon EOS 40D, 撮影モード: プログラムAE, 絞り数値: 9.5, シャッター速度: 1/350,測光方式: 中央部重点平均測光, ISO感度: 400, ホワイトバランス:オート
レンズ: EF16-35mm f/2.8L II USM, 焦点距離: 25.0mm(35mm換算=40.0mm), 画像サイズ: 3888x2592を1024x683にリサイズ

 近世後期の考証学者 宮本茶村先生略伝
 大学者宮本茶村は名を元球
(げんきゅう)、字は仲笏(ちゅうこつ)、通称を尚一郎と言い、茶村と号し、晩年水雲と称した。
寛政5年(1793年)5月15日宮本平右衞門高重の二男として、潮来村に生まれる。
 幼い頃から聡明で学問を好み、十余歳にして兄篁村と共に江戸の山本北山に学ぶ。研鑽数年学成って帰郷後家業を継ぐ。一方、富を蓄えるより名教を遺すべしと学問教育に専念し、「恥不若
(ちふじゃく)」と称する塾を開いて多数の子弟に教授する。
 天保元年(1830年)水戸藩主徳川斉昭が藩政改革に着手するとたびたび献策し、特に海防及び教学について卓見を披瀝し、認められて天保14年郷士に抜擢される。天保の大飢饉には義倉の貯えを解放し、更に私財を投じて村民の救済に努めた。
 弘化元年(1844年)烈公斉昭が幕府より蟄居
(ちっきょ)謹慎を命じられると江戸に出て雪冤(せつえん)運動を展開したため、捕われて水戸赤沼に投獄される。しかし、その努力がみのって斉昭が藩政に復帰することを許された嘉永2年(1849年)蟄居を解かれ、以後は世事を断って著述に専念し、関城繹史、諸族譜、常陸国郡郷考、双硯堂詩集等多くの名著を残す。
 学者、教育者、庄屋、郷士として数多の功績を遺し、文久2年(1862年)6月25日70歳の生涯を閉じる。
 明治40年(1907年)正五位を贈られる。

   平成13年4月
                            潮来市教育委員会
  文化財を大切にしましょう

この説明板は、淨國寺西側道路筋向かいの宮本茶村墓地の一角にあります。
宮本茶村墓地は、嘗て宮本家敷地の一部だった場所で、この説明板の他に立派な石造の茨城県偉人顕彰碑と、もちろん墓石が配置されています。

外部リンク
各地区公式サイト: 茨城県潮来市くらし・市政くらし文化財潮来市の文化財(歴史と主な文化財紹介)先人のあしあと

戻る  トップページ>『先祖調査メモ』>『宮本茶村』>『宮本茶村説明板
Copyright © 2002- Sam Ohta/JA1POP All Rights Reserved.