東條氏の重大問題 その2: 鎌倉時代に幕府から冷遇…作戦が功を奏して興隆へ
頼朝の挙兵に際しても、さらにその後も「敵対こそしない(志田義廣の反乱の際には敵対しました)が積極的には頼朝に協力しない」という態度だったようで、鎌倉殿(頼朝個人、転じて鎌倉幕府)から睨まれ、存続のために幕府の御家人(例えば國井氏・中郡氏・那珂氏等)と姻戚関係を結んだり、領地に多くの分家を配置して嫡流を不明確にしたり、東條の地を熊野新宮速玉社へ寄進し立荘したりの対策を行ない鎌倉時代を乗り切りました。
頼朝は鎌倉時代初期に我々4兄弟の長男多気義幹を追放し、4男下妻弘幹を殺していますから、5男の我が東條忠幹が頼朝に協力したくないのは当然でしょうが、しかし、長いものには巻かれないと殺されてしまいます。5男と6男が無事だっただけでも幸いかもしれません。
やがて、鎌倉時代も後期になると東條氏は興隆の時代を迎えます。

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