水戸黄門漫遊記 (みとこうもんまんゆうき)
江戸後期に講釈師が創作し、明治時代に入って同じく講釈師が編修したとされています。
水戸2代藩主徳川光圀の発意で開始され、藩財政への負担が大きいと非難されながらも代々の藩主に受け継がれて明治期にやっと完成したという壮大な事業である『大日本史』の編纂に必要な学術調査と史料収集のため、佐々介三郎ほかが諸国を旅した様子を物語にしたと言われます。
徳川光圀は黄門(
Note 1)様、佐々介三郎は「佐々木助三郎(または介三郎)」として「スケ」さん、そして安積覺兵衞は「渥美格之進(または格之丞)」として「カク」さん、それぞれのモデルとされています。さらに、その他の登場人物も、実在した人物がモデルになっているそうです(Note 2)。
本物のスケさんは史料調査のために西国を中心に九州まで諸国を歩き回りましたが、カクさんはあまり動かなかったそうです。

水戸藩士とはいえスケさんもカクさんも彰考館の学者ですからあんなに強いはずがありませんし、黄門様の徳川光圀は決して名君ではなく、苛政の指摘や酷評が存在し、一面ではたぶん正しいと思います(私は先祖がお世話になりましたので光圀を悪く言いたくありません。お世話になったのは、たとえばこちらこちら)。
加えて、定府で江戸に住むことが義務づけられている水戸藩主が諸国漫遊などできるはずがなく、領地巡検以外では日光や鎌倉へ出かける程度です。
しかし、そもそも『水戸黄門漫遊記』はフィクションであり、悪人を懲らしめ弱者を救うという勧善懲悪のストーリーが痛快ですから、いろいろ考えずに楽しむのがベストだと思います。

水戸黄門漫遊記成立の背景:
水戸藩は、徳川御三家の中で紀伊、尾張より石高が低いため、歴代の藩主は格式の向上に並々ならぬ努力をされたようです。
2代藩主徳川光圀を名君と位置づけ、水戸家は公方様(将軍)に事あるときの副将軍であり、将軍を出さない代わりにその決定権を有する特別な家柄であると他藩や幕府に認識させ、さらに補強のため9代藩主徳川齋昭に招かれた講釈師、または齋昭自身が『水戸黄門漫遊記』を創作して流布させたと言われます。

Note 1: [語句説明] 広辞苑によれば、つぎのとおりです。
黄門(こうもん) = ①(唐の門下省の次官である黄門侍郎の職掌に似ているからいう)中納言の唐名。 ②(中納言であったからいう)德川光圀(みつくに)の異称。水戸黄門。

※歴代の水戸藩主には中納言が7人いますので「水戸黄門」も7人ということになります。
すなわち、初代頼房(威公)、2代光圀(義公)、3代綱條(粛公)、6代治保(文公)、8代斉脩(哀公)、9代齋昭(烈公)、10代慶篤(順公)が「水戸黄門」ですが、しかし上記広辞苑の②のように光圀が「水戸黄門」として一般的に広く認識されています。したがって、「水戸黄門」や「黄門様」と言えば光圀を指すと理解しましょう。
また、正しくは権中納言であり定員外の官位だから正式な中納言にあらずという指摘もありますが、細かいことは言わないでおきましょう。

Note 2: そうであれば、我が太田氏3代目の太田歳勝も『往復書案一覧(抜粋)』のとおり一緒に行動していましたので、漫遊記に登場しているのかな? しかし、「トシ」さんなんて出てきませんよね?

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