久昌寺
日蓮宗 本山 久昌寺 Googleマップ 那珂湊天満宮

下記、久昌寺案内書より引用。我が家の関係部分を
赤文字で表示。(※   )は、私のコメント。

本山 久昌寺
「水戸黄門」徳川光圀公創建
三昧堂檀林旧跡
平成の三昧堂檀林
百三十年振りに復活 平成十五年八月三日

久昌寺縁起
 当山は、徳川御三家の一つ水戸家第二代、俗にいう天下の副将軍・水戸黄門・光圀公の創建によるものである。
 德川家康公と側室・養珠院お萬の方との間に二人の御子あり。兄の頼宣公、長じて紀州を治め、弟の頼房公、水戸の初代となる。法華経の大信者である母お萬の方の影響を受け、共に法華経に親しむ。殊に頼房公の室・靖定夫人(久昌院久子の方)は、お萬の方の感化に依り法華経の信者となり、水戸城下に一宇を建て、時の偉僧・禅那院日忠上人を請じ、深大山・禅那院・経王寺を創し、その教化に浴された。
 この頼房公と靖定夫人の間に生まれられたのが光圀公である。故にお萬の方からすれば光圀公は孫に当たるわけである。こうした祖母と母の影響から、光圀公もまた早くから法華経に親しみ、日蓮聖人の教風を仰いで、名君の譽れを高くされたのである。
 寛文元年(一六六一)十一月十四日、母・靖定夫人(久昌院)逝去されるや、光圀公思親追慕の念やみ難く、延宝元年(一六七三)十三回忌の砌、孝道為本の祖訓に則り、その追善のために一寺建立の悲願を立て、延宝五年(一六七七)約五カ年の歳月をかけて、常陸久慈郡稲木に唐風七堂伽藍の大殿堂を建立し、さきの経王寺をここに移し、亡き母君・靖定夫人の法諡号に因んで、靖定山・妙法華院・久昌寺と称したのである。しかし、この大殿堂も、時遷り、やがて廃仏毀釈の煽りを受け、明治三年(一八七〇)廃藩置県と共に水戸家の外護を離れ、末寺である蓮華寺と合併し、現在の地に移る。
 なお、本堂は、昭和六年(一九三一)宗祖六百五十遠忌の砌、篤信者・梅津福次郎翁の一基寄進で、また客殿(瑞雲閣)、書院、庫裡寺は、去る宗祖七百遠忌の砌、その報恩事業として建立された。
 又、平成十五年立教開宗七百五十年慶讃記念事業として霊寶殿、虚空蔵菩薩堂が建立された(神部日曠代)。

主な寺宝
日蓮聖人御真筆(寺宝・文化財)
○上野殿御返事
 文久11年(1274)7月26日著作 祖壽53歳。
○法華題目抄<断簡> 文永3年(1266)正月6日著作 祖壽45歳 同幅三筆の軸。
 極書・・・身延山第22世・心世院日遠上人。
 添書・・・水戸中納言・徳川光圀公。
仏像・彫刻・文献(宗宝・准宗宝・文化財)
光圀公尊像(左写真
(※写真省略))
 水戸三世・綱條公、至孝の念篤く、名工に命じて尊像を造立し、枝藩に一門の家宝として与えしものという。
○日乗上人日記
 皆如院日乗上人が元禄4年(1691)から同16年(1703)2月11日までの自筆の日記。
 光圀公を知る貴重な文献。
○義公木彫面(右写真(※写真省略))
 光圀公の容貌を三時代に分け側近の前田介十郎、太田九藏が彫刻したもの。

○獅子高座
 四面各唐獅子像を画き漆塗す。三昧堂檀林にて新談義用の高座で目下現存する高座中、最も古いものといわれている。
---このほか数多くの重宝を格護---

義公廟由来
 当山の開基檀那・徳川光圀公は、元禄十三年(1700)十二月六日、当山からほど近い西山荘に於いて七十三歳で薨去された。その御霊屋(みたまや)が、当山の境内庭園に立つ義公廟である。
 義公廟とは、光圀公の諡号を、『義公』ということから名付けたもので、この中には、光圀公が亡き母供養の為め、衣冠束帯に身を整え、自ら一字三礼の儀を以って、桧板三十枚に書写した法華経・開結十巻と、母(久昌院)の毛髪を納めた宝塔が安置されている。
 この義公廟は、光圀公を尊崇する人々の手で歓募を行ない昭和十六年(一九四一)その努力に依って建立された。昭和六十二年改修工事を行ない四十年ぶりに美観を再現した。

案内図
(※図省略)
◎JR常磐線・水戸駅乗換、水郡線にて常陸太田(ひたちおおた)駅下車。駅前よりタクシーにて約5分。
 水戸駅からタクシー利用の場合、約40分。
◎車で常磐自動車道を利用の方は、日立南太田ICを降り、常陸太田市内へ。
◎団参でバスを利用の場合は、前もってお申込みあれば駐車場等の案内図を郵送。

日蓮宗由緒寺院
本山 久昌寺
〒313-0007 茨城県常陸太田市新宿町239
TEL.0294(72)4888(代)
FAX.0294(72)4889

義公木彫面(義公假面)はこちら
謝辞: 平成25年(2013)11月2日、久昌寺を訪問して上記赤文字部分の義公木彫面を拝観することができました。この義公木彫面は当サイトで従来から義公假面として紹介しているもので、いつかは実物を拝観したいと思っていました。
上記赤文字部分の太田九藏は太田氏2代目の一有で、私の直系の先祖です。一有は水戸初代藩主徳川頼房(威公)に細工人として出仕、殊に2代藩主徳川光圀(義公)に気に入られたようです。
義公木彫面は当然ながらそれぞれの年代、すなわち義公20~30歳のお面は正保4年(1647)~明暦3年(1657)頃、義公50歳のお面は延寶(延宝)5年(1677)頃に制作したはずです。その後、一有は元禄4年(1691)に義公の隠棲に伴い近臣23名の一人として西山荘近傍に転居し、その2年後、元祿6年(1693)には義公の命で悪路王頭形の修理を行なっています。義公塑像を制作したのも、この頃かもしれません。
また、一有の長男歳勝は大日本史編纂をお手伝いし、次男常言は祖父の姓である東條に復して分家し、那珂湊天満宮の御神体を制作しました。元禄時代は、我が家も活躍していたようです。現在は・・・?です。
事前にコーディネートしてくださった川上様、ご対応賜わりました久昌寺の次期ご住職石川様、執事の佐藤様、ご説明を賜わりました檀家代表の菊池様に篤く御礼申し上げます。菊池様が博識なお陰で多くの知識を得ることができ、西山荘近傍にあった元禄時代の我が家の位置も、Googleマップ 那珂湊天満宮にて明快に指し示して下さいました。篤く御礼申し上げます。
これを機会に皆様と今後もご交誼を賜われますよう、お願い申し上げます。
那珂湊天満宮の大鳥居 久昌寺本堂
那珂湊天満宮拝殿の扁額 久昌寺本堂の扁額

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