元禄時代の我が家

『元禄時代の我が家』 『水戸義公傳』(明治44年 佐藤進 博文館発行)所載  茨城県常陸太田市新宿町 Googleマップ 元禄時代の我が家  元禄4年(1691)~元禄13年(1700) 9年間余り在住
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左方の大きな御殿は天下の副将軍、水戸の黄門様で知られる水戸2代藩主徳川光圀(義公)の隠居先である西山荘、そして右方に「太田九藏」とある小さい家(
Note 1)が我が家です。地名は白坂(しらさか)と言い、現在の国道293号線「西山荘入口」信号の北側辺りです。

太田九藏(この九蔵は太田氏2代目の一有)は、光圀の父となる水戸初代藩主徳川頼房(威公)に細工人として出仕、続いて2代藩主光圀からも彫刻など細工御用を仰せつかっており近臣23名の一人とされました。
一有の一家は、光圀の西山荘への隠居に伴い元祿4年(1691)に江戸小石川からここへ転居しました。
この頃の我が家は、一有(86歳)夫妻、長男歳勝(44歳)夫妻、そして歳勝の次男歳忠(4歳)、合計5人です(歳勝の長男は早世)。
一有元祿10年(1697)(位牌では元祿9年(1696))、その妻は元禄12年(1699)、何れもここ白坂に没します。長男歳勝は歩行士として史書『大日本史』の編纂事業に従事していたため元祿13年(1700)に光圀が没するまで白坂に住みました。(『常磐物語』明治30年(1897)栗田寛)
歳勝には弟常言(つねとき)がおり、常言は寛文2年(1662)曾祖父の旧姓である東條氏を名乗って分家しました。この東條常言によって常陸平氏東條氏が再興され、兄と同じく水戸藩に出仕しました。(
Note 1)

光圀の近臣23名
下記23名は、近臣として西山荘近傍に、それぞれ屋敷を与えられていました。
2番目は、後世の『水戸黄門漫遊記』でスケさんのモデルにされる佐々 介三郎さんです。
20番目の太田九藏が、細工人太田一有と、その子で歩行士の歳勝です。二家族で住みました。

以下、『水戸義公傳』より引用。
公に西山に奉仕せし者
 1) 大森 典膳: 西山にての御家老なり。御隠居の節より御逝去迄初中後相務め候。初めの名は彌三左衞門と申候。不老澤(おいぬさわ)に住す。
 2) 佐々 介三郎: 格式小姓頭也。西山を相勤め候。西山にては萬事御用共相達候。宅は不老澤に有。御逝去二三年前に死。
<-- スケさんです。
 3) 林 肯休: 初名甚右衞門。御隠居の節より相勤候て中比病によって退き申候。初甚右衞門と申候時は御普請觸頭なり。
 4) 鈴木 宗與: 御醫師。御隠居の節より御逝去迄初中後相勤。萬事御用相達候。不老澤に住す。
 5) 井上 玄桐: 御隠居中比より勤御逝去迄勤。儒醫也。新左衞門平に住す。
 6) 三木 幾右衞門: 御小納戸。
 7) 秋山 村右衞門: 御小納戸。
 8) 朝比奈 半治: 初名平太郎。格式御小納戸。御隠居の節より御逝去迄勤。不老澤に住す。
 9) 劔持 與平: 格式小納戸。御逝去の前年より相勤。不老澤に住す。
10) 馬場 佐五衞門: 中比より御逝去迄相勤候。御祐筆なり。新左衞門平に住す。
11) 江橋 六助: 小吟味役。御隠居の節より御逝去まで勤。白坂に住す。
12) 多賀谷 宗傳: 中比より御逝去まで勤。御茶道なり。白坂に住す。
13) 齊藤 心迢: 初名作兵衞。中比に死す。お話相手なり。
14) 中野 久左衞門: 御歩行なり。御隠居の節より勤。中比死。
15) 江橋 林助: 六助か子也。西山にて御徒に被召出。御逝去まで勤。
16) 鹿野 文八: 物書役也。御隠居の節より御逝去まで勤。白坂に住す。
17) 渡邊 悦之進: 御歩行。初は西山に勤。中比は江戸を勤。又御逝去まで西山を勤。白坂に住す。
18) 鰹木 萬衞門: 御歩行。中比より御逝去まで勤。寺谷に住す。
19) 岡山 次郎助: 御歩行。中比より御逝去まで勤。櫻谷に住す。
20) 太田 九藏: 御歩行並御細工御用に付御逝去まで西山に相勤候。白坂(
Note 2)に住す。 <-- 我が家です。御歩行は長男の太田歳勝、御細工御用はその父太田一有です。
21) 前田 介十郎: 九藏と同斷。
<-- 同僚の細工人です。ご子孫が健在でいらっしゃると思います。
22) 井坂 彦衞門: 御庖丁人。御隠居の節より御逝去まで相勤候。
23) 大島 平九郎: 西山にて御とり立、庖丁人になされ候。
右御家老より御歩行の者迄初中後都合人數二十三人にして、此中先だちて死し、又中比より従うものあり。初めより終わりまで此人數あるにあらず。別に史臣一人づつ、毎月交代して西山に勤仕したり。諸臣の家は、近傍不老澤、白坂、寺谷、櫻谷に散在せり。

太田一有の事績
寛永年中、太田一有は水戸初代藩主徳川頼房に出仕。寛文元年(1661)に光圀が2代藩主となると、光圀は父頼房が中屋敷として造営した小石川藩邸を上屋敷として整備しました。
寛文5年(1665)、光圀は明の遺臣朱舜水を招聘して師事。庭園の潤色に朱舜水の意見を採用しました。「後楽園」は朱舜水の命名です。「後楽記事(
Note 3)」によれば、唐門扁額の題字「後楽園」は朱舜水の筆にして太田一有が彫刻せるものとされます。
『常磐物語』および『水戸義公傳』によれば、太田一有は道服姿の義公塑像を制作し、塑像は光圀没後、西山荘が取り壊されると水戸3代藩主徳川綱條(粛公)が享保元年(1716)光圀の17回忌にあたって西山荘跡地に建てた惠日庵(えにちあん)に安置されました。
惠日庵の塑像は代々の久昌寺(
Note 4)住職により守られましたが、文化14年(1817)の火災で惠日庵もろとも焼失してしまいました。西山荘に現存する義公塑像は、天保5年(1834)に水戸9代藩主徳川齋昭(烈公)が太田一有制作の義公假面を肖像の原型として、当時の細工人に「元のように」再造させたものです。
なお、久昌寺にはもう一つの義公假面が現存し、それは太田一有の同僚である細工人の前田介十郎さん(上記リスト21番目)が作った光圀30歳の仮面です。(『水戸市史』中巻(一) Page 904~917、および Page 947) したがって、義公塑像の再造には、前田介十郎さんが作った光圀30歳の假面も肖像の原型として使われたはずです。

光圀50歳の延寶(延宝)5年(1677)は『太田氏系図(PDF)』によれば一有が致仕して家督を長男歳勝に譲る「延寶年中」にあたることから、一有光圀50歳の假面を彫ったことで区切りが付いたとして致仕し、細工人の職を長男歳勝に譲りました。しかし彫刻仕事は継続し、道服姿の義公塑像を制作します。
致仕後の元禄6年(1693)には、光圀の命で桂村高久(茨城県東茨城郡城里町高久)の鹿嶋神社に祀られ阿弖流為(アテルイ)に比定される悪路王の頭形を修理しました。
歳勝は父一有から細工人を継いで水戸藩に出仕、後に『大日本史』の編纂に従事します。当家は太田一有以来、幕末まで細工人を世襲しました。ですから、我が太田氏は水戸藩士ではあっても文武両道とは言えず、専ら『文道』を歩いています。細工人から歩行士に転籍した歳勝も『大日本史』の編纂という仕事ですから『文道』です。『武道』は、天正18年(1590)に豊臣秀吉に負けたときに終わりました。詳しくは、『歴史年表(PDF)』の天正18年(1590)前後をご覧下さい。
さらに、未確認ですが一有は鎌倉英勝寺の彫刻の少なくとも一部を手がけた可能性があります。一有光圀の父頼房に出仕したのが英勝寺の伽藍が整備された時期と重なるからです。そうだとすれば、それが光圀から近臣として重用された理由になります。そこで私は英勝寺に興味を持ち、度々訪問しています。

一有の没年月日は、つぎの3説がありますが享年は全て91歳です。長寿ですね
1. 元祿9 丙子年12月20日(1697年1月12日) ・・・・・・・・・・・当家現存の位牌
2. 元祿10 丁丑年2月29日(1697年3月21日)・・・・・・・・・・・『水府系纂』と『太田氏系図(PDF)』
3. 元祿11 丑年(
Note 5)年12月20日(1699年1月20日)・・・『水戸義公全集』所載『西山過去帳』

ところで、「才能の隔世遺伝」というのは本当かも知れません。私の祖父の芸術面での才能は不詳ですが、その弟、すなわち私の大叔父には彫刻の才能がありました。桜の木で50cmほどの崇高な美しさを放つ観音様を何体も彫っていたのを記憶しています。私を含む2世代を飛び越して、私の長男は現代の細工人になりました。

光圀とその後の西山荘
光圀は元祿3年10月14日(1690年11月14日)、実兄で高松藩祖松平頼重の子である綱條(粛公)に藩主を譲り、元祿4年5月1日(1691年5月28日)にここ西山の地へ隠棲しました。逆に、光圀の実子の頼常は松平頼重の養子となって高松藩主を継ぎます。これによって水戸藩と高松藩は藩主が交換され、以後、水戸藩の嫡流は松平頼重の子孫、高松藩の嫡流は光圀の子孫となります。
当初はその政策(生類憐れみの令)を諫めるほどであった5代将軍綱吉との政争に負け、柳澤吉保が牛耳る幕府との付き合いに嫌気がさしたことが隠居の理由らしく、また、兄の子である綱條への譲位は、たとえ3代将軍家光の指示とはいえ兄頼重を差し置いて水戸2代藩主になったことへの後ろめたさから、儒教の精神どおり「長幼の序(孟子)」に従った正しい状態、すなわち家督を兄が継いだ状態に戻したということらしいです(その後、高松から水戸へ養子が入ったため、水戸徳川家は光圀の血筋に戻ったそうです)。
光圀が元祿13年(1700)に没して間もない宝永2年(1705)、西山荘は水戸3代藩主綱條から藩財政の再建を託された松波勘十郎によって長屋は江戸駒込の水戸藩別邸に移築され、御殿は取り壊されて一旦は消滅しました。
西山荘は、水戸9代藩主徳川齋昭(烈公)の兄である8代藩主齋脩(なりのぶ)(哀公)が文政2年(1819)に規模を縮小して再建し現在に至ります。西山荘には、「元のように」再造された道服姿の義公塑像が現存するそうです。
西山荘警護の藩士の住まいは守護宅として光圀没後も残りましたが、上の地図の家が我が家であった期間は光圀没までの9年間です。一有が元禄10年、そして光圀が元禄13年に亡くなると、歳勝一家は、元祿13年(1700)に水戸城下の天王町へ転居しました。

Note 1: 平成22年(2010)、平塚の川上様、横浜の宮野様、そして茨城県ひたちなか市那珂湊天満宮宮司神永様のお陰で太田一有の次男東條常言の事績が明らかになり、太田氏分家の東條常言が白坂の家に住んでいた可能性が出てきました。
常言は太田氏から分家して祖父の姓の東條に復して細工人として水戸藩に出仕します。兄の歳勝が細工人から歩行士に転籍して『大日本史』の編纂に従事していたため、この頃の御細工御用は太田氏に代わって東條常言が勤めました。常言は光圀に命じられて菅原道真(菅公)の木像を制作、光圀はその木像を元禄8年(1695)の春に常陸國天満宮へ御神体として奉納しています。
江戸の史館で進められてきた『大日本史』の編纂は、光圀の西山荘への隠棲に伴い水戸城二の丸の一角に新設された史館と分担して行なわれるようになりました。そこで、太田歳勝は水戸城下に、東條常言は父太田一有と共に白坂に、それぞれ居住したことが考えられます。
細工人として大きな仕事を成し遂げた東條常言ですが、その後は歩行士、元禄16年(1703)には小十人組に列して東條氏は専ら武家の道を歩み、太田氏が細工人に戻ります。
天明7年(1787)、東條氏は養子として常綱を迎えます。その常綱の実家が川上氏です。常綱が亡くなった寛政5年(1793)から217年後、川上氏と太田氏の交流が復活しました。さらに、川上氏の母方は徳宿氏ですので、1000年遡れば常陸平氏としての血縁関係ということになります。
Note 2: 白坂は、『桃源遺事 巻之五』では白澤となっていますが、久昌寺檀家代表の菊池様によれば「しらさか」という地名であるそうですから白坂が正しく、白澤は間違いです。
Note 3: 「後楽記事」 = 元文元年(1736) 源信興著
Note 4: 茨城県常陸太田市新宿町の久昌寺は、光圀が生母「久昌院靖定大姉(谷 久子)」の冥福を祈るために建てました。初代住職は日乗上人で、西山荘に隠居した光圀を度々訪ねて話し相手になったそうです。
Note 5: つぎのように、元禄11年は丑年ではなく寅年です。「12月20日」は①と一致しますが元禄9年は子年です。「丑」は②と一致します。①~③は、いったいどれが正しいのでしょうか?・・・
元禄9年(1696)丙子/元禄10年(1697)丁丑/元禄11年(1698)戊寅

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