大名屋敷
寛永12年(1635)、3代将軍徳川家光による参勤交代制が確立すると、幕府は大名に江戸の土地を貸与し、各大名の負担で屋敷を造営させた。

●上屋敷: 藩主やその家族が住む公邸であり、役所の機能を持つ。将軍や諸大名の来訪時に接待の場として活用される。江戸開府当初は徳川御三家と有力大名の上屋敷は江戸城郭内にあったが、明暦3年(1657)1月18~19日の大火で江戸城の天守、本丸とともに城内の大名屋敷も焼失したため、防火上の理由から郭外に移された。
上屋敷には藩主とその家族のほか、少数の定府侍(江戸住み)と、国元から1年交替で出張してくる多数の勤番侍がおり、勤番侍は屋敷の塀を利用した長屋に住んでいた。2~3名で1部屋の共同生活だった。
水戸藩の場合、初代徳川頼房のときは上屋敷が江戸城郭内にあったため小石川に中屋敷を造営したが、明暦の大火(このとき中屋敷も焼失~駒込別邸へ非難)以降、2代徳川光圀が大規模に改修を行ない上屋敷とした。
加賀藩前田家の育徳園も水戸藩と同様に造営後に上屋敷としたもので、現在の東京大学本郷キャンパスにあった。

●中屋敷: 隠居した前藩主や世嗣が住む。災害時の備えとしても機能した。
水戸藩の場合は徳川光圀の代から現在の東京大学農学部の敷地が中屋敷となった。

●下屋敷: 別荘とされることが多く、有力大名は江戸近郊の風光明媚な土地に造営。柳沢吉保の六義園、高遠藩内藤家の新宿御苑、紀伊徳川家の赤坂離宮、彦根藩井伊家の明治神宮等が該当する。

●蔵屋敷: 下屋敷が隅田川、運河、江戸湾等に面した臨海部にある場合は、船で運ばれた年貢米や物品を荷揚げして倉庫として使われた。
水戸藩の場合は下屋敷が現在の隅田公園にあり蔵屋敷として機能した。
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