東條 常房
太田氏系図(PDF)』の、東條常房の部分抜粋です。常房は水戸藩士として生涯に3回、鎌倉英勝寺に出張しました。英勝寺関係は赤文字部分です。

東條介衞門常房 初名悦之進又軍藏
享保16 辛亥年4月24日(1731年5月18日)、切符を賜わって歩行士となる。
元文元 丙辰年9月1日(1736年10月5日)、歩行目付となる。
寛保元 辛酉年11月5日(1741年12月12日)、故あって小普請組となり、
寶暦3 癸酉年6月13日(1753年7月13日)、歩行士に複す。
寶暦5 乙亥年1月13日(1755年2月23日)、式臺
(Note 1)役となる。
寶暦7 丁丑年10月1日(1757年11月12日)、同世話役となる。
寶暦9 己卯年5月22日(1759年6月16日)、英勝寺方丈(Note 2)附屬の奥方番となる。・・・48歳
寶暦10 庚辰年7月2日(1760年8月12日)、御金請拂を兼ねる。
寶暦13 癸未年2月29日(1763年4月12日)、梅御殿奥方番となる。
明和4 丁亥年2月4日(1767年3月3日)、英勝寺方丈附屬の用達(Note 3)となる。・・・56歳
明和5 戊子年8月29日(1768年10月9日)、役切符を召放たれ扶持を賜わって小普請組となる。
安永元 壬辰年5月18日(1772年6月18日)、切符を賜わって再び英勝寺方丈附屬の奥方番となる。・・・61歳
安永9 庚子年6月3日(1780年7月4日)死す。69歳。
松葉松慶常次の女
(むすめ)を娶て一男を生む。龜之助常可と云い早世する。
故に安永8 己亥年9月9日(1779年10月18日)、樫原善助忠謀三男介衞門常壽を養子とする。

★水戸藩士の東條氏は、『大日本史』の編纂に関わった太田歳勝の弟が、曾祖父までの姓であった東條に復して分家した家系で、豊臣秀吉に一旦没落させられたものの再興が成った常陸平氏東條氏です。しかし、残念ながら常陸平氏東條氏は嗣絶によって再度没落してしまいます。『故地』、『太田氏系図(PDF)』、『歴史年表(PDF)』の1679年以降をご参照ください。
★東條氏は、同じ水戸藩士の川上氏から養子を迎えます。その実家川上氏2代目の有隣が水戸藩士として英勝寺へ出張し、寶永元年3月1日(1704年4月4日)から同5年閏1月17日(1708年3月9日)まで「方丈付属の家老」を勤めました(川上氏より情報提供)。
寶永4年(1707)の富士山噴火の際には、16cmも積もった火山灰の処理で有隣さんは大変な思いをされたと想像しております。
英勝寺には、私の高祖母の実家三宅氏のご先祖も出張しました。
東條常房の3回目の出張から27年後、寛政11年(1799)に私の高祖母「きむ」の祖父三宅八三郎富盛が、東條常房と同じ職掌である英勝寺方丈付属の奥方番として出張しています。三宅八三郎家として最初に水戸藩に出仕したのが富盛です。
★豊臣秀吉の臣下として讃岐一国17万3千石を領した生駒氏は、江戸時代に至って寛永9年(1632)からのお家騒動(生駒騒動)を幕府に罰せられ、寛永16年(1639)に出羽矢嶋藩1万石へ減知転封処分となりました。その後、近隣3藩の預領となっていた東讃岐へ寛永19年(1642)に水戸初代藩主徳川頼房の長男松平頼重が入って、新たな高松藩12万石の初代藩主となります。連枝となった水戸、高松両藩は親密な交流を続けます。
生駒氏に仕える三宅氏から八三郎富盛が分家して水戸藩に出仕し、やがて富盛の孫娘「きむ」が私の高祖父太田九藏藏吉と結ばれるのは、連枝である高松藩と水戸藩の縁によるものです。

[語句説明] 広辞苑によれば、つぎのとおりです。
Note 1: 式臺(式台)(しきだい) = (色台の意から)①表座敷と玄関などとの間に設け、客に対して送迎の挨拶をする部屋。式台の間。 ②玄関先に設けた1段低い板敷き。客を送迎して礼をする所。敷台。
Note 2: 方丈(ほうじょう) = ②(天竺の維摩居士の居室が方1丈であったという故事から)禅宗などの寺院建築で、長老・住持の居所。本堂・客殿を兼ねる。転じて、住持。住職。また、師への敬称としても用いる。「-さん」  ①③省略
Note 3: 用達(ようたし) = ③江戸幕府で、大奥の用品を買い上げる職。広敷用達(ひろしきようたし)。  ①②④省略

外部リンク
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